Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 マルコによる福音書8章14~26節

聖書研究 マルコによる福音書8章14~26節(新共同訳 新約pp.76-77)

(1) ファリサイ派の人々とヘロデのパン種(14~21節)

「パンを持って来るのを忘れ」(14節)た弟子達は、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15節)というイエス・キリストの言葉を聞くと、文字通りのパン種のことを語られたと誤解した。そのため「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ」と「論じ合っ」た(16節)。
 弟子達は、イエス・キリストが5つのパンと2匹の魚をもって(19節、6章30~44節)、また7つのパンをもって大勢の群衆を食べさせられたことを既に経験していた(20節、8章1~10節)。にもかかわらず、「パンを持っていないことで議論」(17節)した。
 それに対し、イエス・キリストは、「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(17~18節)と弟子達をお叱りになった。弟子達は、イエス・キリストが行われた御業を見ても、イエス・キリストがどのような方であるかが「まだ」見えていなかった。
 イエス・キリストが「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われたのは、ファリサイ派のような形式主義、ヘロデ党のような世俗主義に陥ってはいけないという警告であった。ファリサイ派の人々は宗教的には熱心であった。しかし、イエス・キリストの教えと御業を理解出来ず、この出来事の直前に「イエスを試そうとして、天からのしるしを求め」(11節)ている。一方、ヘロデ派の人々は、世にどっぷりと浸かっていたが、この後ファリサイ派の人々と共に「イエスの言葉じりをとらえて陥れよう」(12章13節)としている。どちらもイエス・キリストに敵対した。
 また、「パン種」とは、新約聖書において人の中に密かに忍び込み、そして広がっていく誤った考え方や風潮を表している。「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」(ガラテヤの信徒への手紙5章9節)ように、小さな罪や妥協がいつの間にか大きくなり、イエス・キリストの福音から私達を遠ざけてしまう。
 イエス・キリストは「命のパン」(ヨハネによる福音書6章35節)であり、私達に真の命を与え、必要を満たして下さる方である。イエス・キリストの内には全てがある。だから、イエス・キリストから決して離れてはならない。「だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」(ルカによる福音書19章26節)。私達をイエス・キリストから引き離そうとするもの、イエス・キリスト以外の何かを求めさせようとするものに注意しよう。

(2) ベトサイダで盲人を癒す(22~26節)

 イエス・キリストはベトサイダに着くと、人々が連れて来た盲人を癒された(22節)。イエス・キリストがこの盲人の目を開かせる過程には、他の病人の癒しとは違う点がある。それはこの人の目に2回手を置かれたことである。最初手を置かれた時には(23節)、盲人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」(24節)と答えている。そして、もう一度手を置かれると、盲人は「よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」(25節)。
 この盲人の癒しは、弟子達の霊的状態を示す象徴的な出来事であると言える。イエス・キリストが1度目に手を置かれた時、盲人の目は開き始めていたが、まだぼんやりとしか見えなかった。同様に、弟子達も、イエス・キリストと出会い、その傍で宣教を見聞きしていながら、イエス・キリストがどのような方であるかがまだ「見え」ていなかった。
 しかし、そのような弟子達も、復活のイエス・キリストと出会い、そして聖霊を受けたことによって、霊的な目が完全に開かれ、はっきりと見えるようになった。そして、イエス・キリストだけが唯一の救い主であると確信し、その証人となった。