Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Jean Calvin Commentarius in Epistolam Pauli ad Ephesios 2

Jean Calvin Commentarius in Epistolam Pauli ad Ephesios 2
【関心・疑問】

【論文名】
Commentarius in Epistolam Pauli ad Ephesios

【著者名】
Jean Calvin (森井 真訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
Guilielmus Baum, Eduardus Cunitz, Eduardus Reuss (eds.), Ioannis Calvini Opera Quae Supersunt Omnia; 51, Corpus Reformatorum; 79, Brunsvigae: C.A. Schwetschke, 1895
(『ガラテヤ・エペソ書』カルヴァン新約聖書註解; 10, 東京: 新教出版社, 1962年)

【本文の構成】

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
第2章

1 さて諸君は、さきには……であった

 パウロは、かれらが死んでいたものだったという。そして同時に、その死の原因を、自分の罪だと述べている。それはただ、かれらが死の危険にあったという意味ではない。それはほんとうの、現実の死であり、かれらはすでにそれに抑えられていたのだというのである。魂の死とは、魂が神に叛いているときにほかならないとすれば、われわれはすべて、キリストの生命に与るものとされるまでは、死んだものとして生まれ、死んだものとして生きている。だからこそキリストは、「死んだものが神の子の声をきくときがいまやきている、それを聞くものは生きるであろう」(ヨハネ5:28)といわれるのである。(p.160; 邦訳p.176)

2 かつてはそれらのなかで……歩いていた

空中の権をもつ君に従って

 パウロはヘブル人の慣例に従って、反逆者たちを不従順の子らといっている。たしかに、不信はつねに不従順を伴う。そしてさらにあらゆる頑迷さの源であり母でもある。(p.162; 邦訳p.178)

3 ……かれらのなかにいて

生まれながら……

 しかしパウロは、蛇がその腹の毒を母からうけるように、人間は罪とともに生まれるのだというのである。(p.163; 邦訳p.179)

4 しかるに神は

 いまや第2部が続く。その要点は、神はエペソ人のすべてがつながれていた滅びから、かれらを解放された、ということである。ただしかれは別のことばを用いる。憐れみに富む神がキリストとともに諸君を生かした、とかれはいうのである。パウロはここで、キリストがわれわれに吹きこむもののほか、魂の生命というべきものはありえないことを理解させようとしている。われわれは、キリストと同じ生命をうけかれと交わるためにキリストに接がれるときに、生きはじめるのである。(p.163; 邦訳pp.179-180)

8 諸君が救われたのは恵みからである

 これは上に述べられてきたことの結論とみてよい。なぜなら、かれは選びと無償の召命とについて語って、「信仰のみによってかれらは救いをえた」という要旨に到達しようとするのだから。かれはまず、エペソ人の救いは神のわざであって、それ以外のものではない、すなわちそれは無償のわざであるということ、またかれらの側からいえば、かれらはこの恵みを信仰によって抱き、受け容れたのだということを確証する。それは神の側と人間の側とから考えねばならないからである。かれは、神はわれわれに何ものをも負わせない、神がわれわれを救うのは純粋な恵みであって、褒美や報酬ではない、と言う。そのあとで、人間がどのようにして、神の手からかれらに差し出された救いに与るものとされたか、ということを知らねばならないのである。パウロは、それは信仰によると答えている。そこからかれは、これらすべてについて、われわれのものはなにひとつない、と結論する。神の側からいえば、あるものはただ恵みのみであり、われわれについては、信仰以外にはなく、その信仰がわれわれからあらゆる賞讃を剥ぎとってしまうとすれば、当然、われわれから出るものはなにひとつないということになる。このようにして、自由意志も、よき意図も、人間が考え出したさまざまな準備も、功徳も償いも、まったくやんでしまわざるをえないではないか。なぜなら、このようなもののどこにだって、人間の救いに対する賞讃の一部を、帰しうるようなものはなに一つないのだから。さもなければ、パウロが恩寵に対して捧げるべきだと述べている讃美が、全然なされないことになってしまうであろう。一方人間の側について、救いを信仰においてうけとる方法のみを設定することによって、かれは人間がこれまで頼ることになれてきたその他の方法を斥けている。ところで信仰は、人間がキリストの富に満たされるために、人間を空しくして神のもとにつれきたる。そこでかれはこうつけ加える。諸君自身から出たものではなく。それは、自分には何ものも僣取せず、自分の救いの唯一の原因として神を認めるためである。(p.165: 邦訳pp.181-182)

10 われわれは神の作品である

神は予め備えてくださった

 これは、ペラギウス派の考えるように、律法の意味にとるべきではない。かれらによれば、パウロは、何が義しいことかを神が命じ、良く生きるための正しい秩序が何であるかを教えておられるのだと、解しているかのようである。しかしパウロはむしろ、さきに述べはじめた問題、すなわち救いはわれわれから出るのではないという論議を、続けているのである。つまりかれはこう言っているのだ、「われわれは自分の力が良く生きることのできるものではなく、神の手で形をあたえられ仕上げられるものである以上、善行もわれわれが生まれる前に神に準備されるのである」と。まず神の恵みが先んずるのであれば、われわれには自分を誇る機会などはまったくないわけである。従ってこの予め備えてくださったということばは心して読まれねばならない。パウロは順序からしても、神が善行のゆえに、われわれに負うているものは何もないことを証明している。どのようにしてか。善行は、ずっと前からしまわれていた宝庫からこれを取り出してくるようなものである。神は召した人々を義とし、またこれを新しく生かされるからである(ローマ8:30)。(p.167; 邦訳pp.184-185)

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