Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書講話 使徒言行録17章22~34節

聖書講話 使徒言行録17章22~34節(新共同訳 新約pp.248-249)

 パウロが「アレオパゴスの真ん中に立って」(22節)、アテネの人々に語った宣教は、これまでパウロユダヤ人の会堂で語ってきた内容とはかなり違う。何故なら、会堂に集まって来るユダヤ人に対しては、主なる神の存在について、また主なる神とはどういう御方であるかということについて説明する必要はないからである。彼らは旧約聖書という同じ土俵の上に立っている。それ故、彼らに対するパウロの宣教の要点は、イエスこそがメシアであるということに絞られていた。
 ところが、今回は神理解からして全く違う相手である。まず主なる神は偶像ではないというところから始めなければならなかった。しかも、相手は知的探求心の強いギリシア人である。このことは日本人に福音をどのように語るべきかについて示唆を与えてくれるものである。
 話を始めるにあたっては聴き手との間に共通の基盤が必要である。そこでパウロが思い出したのは、アテネの町を回った時に目にした「『知られざる神に』と刻まれている祭壇」(23節)であった。
 アテネには「町の至るところに」(16節)偶像があった。しかし、アテネの人々の心の中にも、真の神は他にいるのではないかという不安があったのかも知れない。まだ自分達の知らない神がいる筈であるという思いから、このような祭壇を築いたのだろう。日本にもそのように考えている人は少なくないと思う。〈学問の神様〉や〈商売繁盛の神様〉に手を合わせながら、「真の神はこういうものではない」と感じている人達は意外といるのではないか。
 とはいえ、「あなたの拝んでいるものは神なんかではない!」といきなり言われたら、人は心を閉ざし、頑なにしてしまう。それ故、パウロは「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」(22節)という言葉をもって宣教を始めている。いくら正しいことを語っても、良い関係がなければ、耳を傾けてもらえない。私達が誰かに福音を話す時、聞く耳を奪ってしまわないように話すというのは大切なことである。
 その上で、パウロは主なる神が「世界とその中の万物を造られた」(24節)方であることを説いた。この方は、全てを支配しておられる「天地の主」であるので、「手で造った神殿などにはお住みに」ならず(24節)、「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要」もない(25節)。
 26節でパウロは「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」と述べている。主なる神は、全ての民族を造られた方であり、その住む境界線を定められた方であり、季節を造り、一つ一つの時代を支配しておられる方である。どんなに雪が積もっても必ず春が来る。どんなに夜が暗くても必ず朝が来る。それは、主なる神が地にそのような法則を与えて支配しておられるからである。また、歴史を振り返る時、確かにそれを導いている方がおられることを私達は認めざるを得ない。悪人の支配は一時期栄えているように見えても、必ず滅びる。これらのことを見た時、全てを支配しておられる主なる神がおられることに私達は気付かされる。だから、パウロは27節で「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」と述べている。
 パウロはそのことを示すためにギリシアの詩人の言葉を引用している。一つはクレテの詩人エピメニデスの「我らは神の中に生き、動き、存在する」という言葉、もう一つは、キリキアの詩人アラトスの「我らもその子孫である」という言葉である(28節)。ギリシア人はゼウスの子孫であるというかなり危ない詩であるが、神の子孫が神を偶像にしてはいけないというのがパウロの論法であった。
 旧ソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、ロケットに乗って宇宙に行った時、「そこに神はいなかった」と言った。一方、アメリカの宇宙飛行士の多くは宇宙から地球を見て、主なる神に対する畏敬の念に打たれて帰って来た。そして、そのうちの何人かは伝道者になった。問題は求める心があるかどうかである。
 更に、主なる神は正しい裁きを行う方である。30節でパウロは「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」と語っている。ローマの信徒への手紙1章20節でもパウロは「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」と記している。
 私はキリスト者になる前によく思った。「良いことをしたら天国、悪いことをしたら地獄と言われるけれども、それを決める主体は一体誰なのだろう。或る人は犯罪が見つかって裁かれ、或る人は隠し通すことが出来て裁かれないまま死んでいく。人間の裁きには限界があっても、正しく裁かれる方がいる筈だ」。
 主なる神は、自然や歴史を通して、また私達の良心を通してご自分の存在を繰り返し語っておられる。だから、裁きの座で「神様、あなたがおられたなんて知りませんでした。いるならいるとはっきり言って欲しかった」と私達が主張したとしても、神がいるとは知らなかったという言い訳は成り立たない。そして、主なる神は今私達に悔い改めを求めておられる。
 人生で一番確かなことは一度死ぬことである。一番不確かなことはいつ死ぬかである。私達は何故死を恐れるのだろうか。それは死の向こう側に裁きがあるということを察知しているからではないか。
 主なる神は「先にお選びになった一人の方」、即ちイエス・キリストによって「この世を正しく裁く日をお決めになった」(31節)。そして、私達が受けるべき主なる神の裁きを、イエス・キリストは十字架で私達の代わりに引き受けて下さった。「神はこの方を死者の中から復活させ」ることによって、「すべての人にそのことの確証をお与えになった」(31節)。今主なる神はイエス・キリストの十字架と復活を通してご自分の裁きと罪の赦しを明確に語っておられる。だから、私達は知らなかったとは言えない。罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じなければならない。
 ここまで話が及んだ時、聞いていたアテネの人々は3つのグループに分かれた。第一のグループの人々は「あざ笑」(32節)った。彼らにとって「死者の復活」とは全く馬鹿げた話であった。第二のグループの人々は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」(32節)と言った。即ち、態度を保留した。そして、第三のグループは「何人か」の「信仰に入った者」である(34節)。彼らについては名前も記されている(34節)。
 礼拝に来る人の中に「あざ笑」う人は余りいないだろう。しかし、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と態度を先延ばしにすることは私達の人生の中でよくあると思う。どうしてそうするのだろうか。それはこれから幾らでもチャンスがあると思っているからではないか。しかし、チャンスというのはそう多くは与えられないものである。この後、「パウロアテネを去ってコリントへ行った」(18章1節)と書かれている。パウロは以後二度とアテネには来ない。「いずれまた」は存在しなかった。そして、彼らにとって「知られざる神」は「知られざる」存在のままとなってしまった。
 私達は今日すべき決断を明日に延ばすべきではない。私達にとって、聖書に啓示されている主なる神は未だに「知られざる神」だろうか。それとも「天の父よ」と呼ぶことの出来る存在だろうか。この方を更に深く知るために、私達のなすべき決断を今日しよう。