Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 使徒言行録22章

聖書研究 使徒言行録22章(新共同訳 新約pp.258-260)

【概要】

【歴史的背景】

【釈義】
6~7節 天からの強い光

 本節から16節までは、9章3~19節の回心の場面とほぼ同じである。若干の違いが見られるのは、パウロ自身の観点からその出来事を思い返したからだろう。ここでは特に、この出来事が「真昼ごろ」にあったこと、「突然、天から強い光」が自分の「周りを照らし」たことについて言及がなされている。この光はパウロと「一緒にいた人々」を照らした。パウロは「地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』」という御声を聞いた。その御声はこれまでパウロがしてきたことが主なる神に敵対するものであることをはっきりと指摘した。

8節 あなたが迫害しているナザレのイエスである

 イエス・キリストに「なぜわたしを迫害するのか」(7節)と問われたパウロは、「主よ、あなたはどなたですか」と答えた。すると、イエス・キリストは、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」と答えられた。イエス・キリストは、パウロが迫害していた者をご自身だと言われた。迫害はイエス・キリストを主と信じる者に加えられたが、その迫害はイエス・キリストに対するものだというのである。キリスト者イエス・キリストは一つにされたからである。キリスト者イエス・キリストから離れた存在であることはない。パウロは書簡では教会を「キリストの体」、キリスト者はその各器官であると言っている(ローマの信徒への手紙7章4節、コリントの信徒への手紙10章16節、12章27節、エフェソの信徒への手紙4章12節)。体の各器官が結び付いて一つとなってこそ、信仰共同体はその特性を十分に発揮することが出来る。信仰共同体である教会の頭はイエス・キリストであられ(エフェソの信徒への手紙1章22節、コロサイの信徒への手紙1章18節)、そこに属する夫々の器官がイエス・キリストに従うならば、正常に動くことが出来る。

9~10節 主よ、どうしたらよいでしょうか。

 パウロと「一緒にいた人々」は、その光を見たが、彼に「話しかけた方の声」を聞くことは出来なかったという言及は、イエス・キリストの召しがパウロ個人に対する啓示であったことを示している。9章5節でパウロが語った唯一の言葉は「主よ、あなたはどなたですか」であったが、ここでは「主よ、どうしたらよいでしょうか」という能動的な質問をしたと証言している。イエス・キリストパウロに「立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる」と言われた。本文ではアナニアに対する言及はなされていないが、12節で登場する。

11節 手を引かれて、ダマスコに入りました

 迫害に対する罰であるかのように、パウロは「真昼ごろ」「目が見えなくなっ」た。それは、主なる神がイスラエルの民に、不従順であるなら盲人のようになる裁きが下されると語られた通りであった(申命記28章28~29節)。このように、パウロが迫害を止めたのは、自分の意志によるものではなく、ダマスコへ向かう途上で起こった不可抗力の出来事の結果であった。イエス・キリストに敵対し、屈折したパウロは、まっすぐに正されて伝道者へと生まれ変わらせられた。「一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入」る場面は、それまでのパウロの誤った行動が全て葬り去られたことを暗示している。パウロはダマスコのキリスト者エルサレムに連れて来て殺そうとした。しかし、倒れたのは彼の方であった。主なる神のご計画は、人の考えや計画とは違う。この後パウロがどう生きたかは、これまで見てきた通りである。パウロは、9章15節でイエス・キリストが「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と語られた通りに導かれ、ここまで来た。

22~23節 地上から除いてしまえ
 ユダヤ人達はパウロを放っておくことが出来ず、パウロに向かって声を張り上げ、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない」と言った(21章36節、ルカによる福音書23章18節)。イエス・キリストを十字架につけるよう要求した時も、群衆はこのように叫び続けた(ルカによる福音書23章21節)。ユダヤ人達の叫びは、上着を投げつけ、砂埃を空中に撒き散らすことによって激しさを増した。このような行動はこれまでにも見られた(7章57節、18章6節)。ユダヤ人達にとって、パウロの言ったことは、悪辣な神聖冒瀆であり、忌み嫌うべきものであった。

【黙想】
(1) パウロ、異邦人のための宣教者となる(17~21節)

 パウロは自分の回心の体験を告白した後、ユダヤ人である彼が異邦人に行くしかなかった理由を弁論し始めた。その理由は2つあった。第一の理由はユダヤ人の拒否である。主なる神は、ユダヤ人がパウロの伝えるメッセージを拒否し、彼を取り除こうとすることを知っておられた。だから彼に早くエルサレムを去るようにと言われた(18節)。ここで私達は、パウロを守り、行く道を導かれる主なる神の御手を確認することが出来る。ユダヤ人であるパウロが異邦人に行くほかなかった第二の理由は使命であった。パウロは同胞に対して切なる思いを持っていた。しかし、主なる神は彼に異邦人宣教の使命を任せられた(21節)。主なる神の僕は、自分の思いと意志ではなく、使命を与えられた主なる神の御心に従って生きる人である。

(2) パウロと千人隊長(22~30節)

 パウロの弁論を聞いたユダヤ人は急にパウロを殺せと叫んで騒ぎを起こした(22節)。騒乱状態になりかけると、千人隊長はパウロを鞭で打って取り調べよと命じた(24節)。あらゆる状況がパウロにとって脅威的で、すぐにでも鞭打たれるか、群衆の騒乱によって命をも失いそうな状況であった。しかし、主なる神はパウロの身分とローマ法によって状況を逆転させた。当時のローマ法は、ローマ帝国の市民権を持つ者を正式な裁判の手続きなしに処罰したり、拷問することを禁じていたのである(25節)。ローマ帝国の市民権があるパウロを異邦人の使徒として立てた主なる神の摂理が光を放った瞬間であった。状況は逆転し、千人隊長がパウロを恐れるようになった(29節)。主なる神の僕はどのような状況でも恐れる必要がない。状況の主導者は主なる神だからである。

【適用】
 主の働きに遣わされる時、何もかもが整えられ、何の苦労もしなくてよい所に出て行くのではない。自分自身だけを見ても足りず、道は開かれたもののまだ見えないこともある中で、聖霊の導きに従って主なる神が語られることを信じ、それに従って一歩を踏み出そうとする時、主なる神はその一歩に必要なものを備えて下さる。主なる神はご自分の民が信仰をもって従うことを願っておられる。主の働きは自分を信じるのではなく、主なる神を信じることであり、主なる神が備えて下さるので果たせるのである。働きの中で目に見えるものに頼っていないか、主なる神に対する信仰に堅く立っているか、点検してみよう。

祈り