Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 マルコによる福音書10章13~16節

聖書研究 マルコによる福音書10章13~16節(新共同訳 新約p.81)

【概要】
 弟子達はイエス・キリストのもとに子供達を連れて来た人々を叱った。しかし、イエス・キリストは子供達が自分のもとに来るのを妨げてはならないと憤られた。そして、子供達を抱き上げ、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と語られた。神の国を子供のように受け入れる者は、主なる神の言葉に謙遜に従う。これは神の国の民かどうかを区分する試金石である。

【歴史的背景】

【釈義】
13~16節 子供達を通して教えられるイエス・キリスト

 ユダヤの慣習では、罪のための贖いをする日の夜、子供達を長老達の所に連れて行き、祝福を祈ってもらった(ミシュナー)。弟子達が子供達を連れて来た人々を叱った理由は記されていない。9章33~37節で、弟子達が「だれが一番偉いかと議論し合っていた」ことに対し、イエス・キリストは「一人の子供」を連れて来て、〈仕える〉という神の国の価値観について説明された。にもかかわらず、弟子達が子供を連れて来た人々を叱ったことは、彼らが神の国の価値観を学んでいないということを示している。イエス・キリストは離婚についての教えと同じく、ここでもこの世の価値観を覆された。イエス・キリストは、当時の社会において、更には弟子達からも蔑まれていた者を大事にし、受け入れられた。そして、彼らが大切な理由について、「神の国はこのような者たちのものである」と教えられた。神の国は、蔑まれ、拒絶されていた者、疎外されていた者、病の者、異邦人、女、子供が認められ、大切にされる国である。この世の価値観に染まった者がこのような神の国の価値観を学ぶことは、決して容易いことではないだろう。
「手を置」くことは、福音書では癒しとの関連で行われることが多いが(ルカによる福音書12章13節)、ここでは子供一人一人をイエス・キリストが受け入れられたことを意味している。

【黙想】
1. 聖徒は子供のように主なる神の御心を受け入れるべきである。子供は自分の弱さを知っているので、守られることをとても喜び、そうされる時に心から安心出来る。人間は主なる神から離れては生きていけない。子供のように主なる神に守られるべき者であることを認め、主なる神の憐れみに縋り、主なる神の御心に従わなければならない。

2. 聖徒は結婚についての主なる神の御心を知り、結婚関係の上にある主なる神の御心を教え、それを子供のように受け入れなければならない。主なる神の御心に従う家庭を通して主なる神の栄光が表され、神の民が立てられる。そのような家庭を通して健全な教会が立てられる。

【適用】
 聖書が結婚についてどのように語っているかを正しく教えなければならない。まだ結婚していない青年や中高生には、結婚についての正しい知識が特に必要である。それを守ることがなければ、夫婦関係が行き違い、家庭が壊れるのは時間の問題だからである。家庭が崩れれば、教会も崩れ、教会がしっかり立つことがなければ、救われる魂が起こされることは難しい。聖書が語る結婚を疎かにせず、また繰り返しそれについて省みるよう、よく教えなければならない。

祈り