Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編127編1~5節

聖書研究 詩編127編1~5節(新共同訳 旧約pp.971-972)

【概要】
 主なる神が共におられなければ、家を建てる人の労苦も、町を守る人が目を覚ましていることも、朝早く起き、夜遅く休むこともむなしい。主なる神は、主なる神が喜ばれることをする者を愛し、眠りを与えて下さる。子は主からいただく嗣業である。

【歴史的背景】
子供は主の嗣業、胎の実は報い(3節)

 ユダヤ人にとって若い男女が家庭を築き、健康な子供を生むことは主なる神の最大の祝福だった。それ故、子供は多ければ多いほど良いとされた。子供に対する当時のユダヤ人の執着は相当なものであった。今のように社会保障制度がなかったので、老人を養い、家族を守っていくのは子供しかいなかった。聖書の時代に一般的に4代が集まって生活したのもそのためである。子供に対する関心が強いため、不妊の女性は途轍もない苦痛を強いられた。子供がなく代が途切れるのは、主なる神の呪いに他ならないとされ(創世記30章1~2節、サムエル記上1章6節、ルカによる福音書1章7節、25節)、息子は娘より祝福と考えられた。息子は成人しても両親の傍に留まり家族の世話をするが、娘は嫁いでいくからである。

【釈義】
3節

 本節は「見よ」という言葉で新しい段落の始まりを告げている。旧約聖書は、子供によって受け継がれていく命を、主なる神が与えて下さった祝福と見なしている。詩人は子供を「主からいただく嗣業」と言っている。子供は主なる神の恵みによって与えられるものなので、遺産は親から子供に与えられるものではなく、主なる神からその人に直接与えられるものである。それ故、主なる神が与えて下さった子供が親の遺産を受け継ぐのである。また、「胎の実り」である子供は、主なる神の「報い」である。働く人が主人から賃金を受け取るように、子供は主人であられる主なる神から受ける賜物である。妊娠と出産は主なる神の賜物なのである(創世記30章2節、サムエル記上1章27節、ルツ記4章13節)。

【黙想】
(1) 人の労苦(1~2節)

 聖徒は、何かをする時、主なる神がそれを喜ばれるか、祈って尋ねなければならない。主なる神が喜ばれず、共におられないことなら、そのことに対するあらゆる労苦はむなしいだけである。結果が良いからといって、それを主なる神が喜ばれることだと無条件に決めつけてはならない。私達は何かを始める時だけでなく、進めていく時にも主なる神の御心を尋ね続け、主なる神の主権を認めなければならない。主なる神は、主なる神が喜ばれることを行う人を愛され、眠りを与えられる(2節)。これは、よく眠れるかどうかで、その人に対する主なる神の愛を測ることが出来るという意味ではなく、主なる神が喜ばれることを行う人に、主なる神は必要なものを与えて下さるという意味である。自分が喜ぶことではなく、主なる神が喜ばれることを行う聖徒になろう。

(2) 主なる神の賜物(3~5節)

 困難に遭った時、子供達に助けてもらえる親は幸せである。子供は、主なる神が下さった尊い嗣業である。主なる神は、子供以外にも健康、知恵、才能、財産などを賜物として与えて下さる。だからと言って、子供がいないこと、肉体的な病を抱えていること、才能のないこと、貧しいことは、主なる神の恵みを受けられなかったからではない。大切なことは、主なる神からどのような賜物を受け取ったかではなく、主なる神の賜物を大切にしているか、主なる神の御心に相応しく賜物を用いているかである。イスラエルの初代の王サウル、最高の知者ソロモン、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダは、主なる神の賜物をどのように用い、その結果、どうなっただろうか。主なる神の賜物を、主なる神の御心に相応しく用いる時、私達は真の幸せを味わうことが出来る。

【適用】
 自分自身が主なる神のものであるということを常に確認しなくてはならない。自分の人生は自分のものだという錯覚を捨て、主なる神の御心のために最善を尽くす者になろう。

祈り
 主よ、好きなものに執着する時があることを告白します。どのようなことも、まずあなたに尋ね、それをあなたが喜ばれるかどうかが、全ての決定の根拠となるように助けて下さい。