Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Chesterton, Orthodoxy, pp.282-283 (安西訳『正統とは何か』pp.137-139)

G. K. Chesterton, Heretics ; Orthodoxy ; The Blatchford Controversies, The Collected Works of G. K. Chesterton; 1, San Francisco: Ignatius Press, 1986, pp.282-283
(安西 徹雄訳『正統とは何か』東京: 春秋社, 1995年, pp.137-139)

「さて、その次に私のした経験は、どうにもほとんど描写が不可能な経験だった。言ってみれば、私はまるで、生まれてこのかた、二つの巨大な手に余る機械を、わけもわからずいじくり回していたようなものだった。二つの機会は形もまるで別々で、どう見ても何の関係もないようにしか見えなかった。二つの機械とは、つまりこの世界と、そしてキリスト教の伝統である。この世界という機械のほうには、一つの穴が開いていた。この世を愛しながら、しかも、頭から信じ切ってはいけないという事実、この世を愛しながら、この世の愛に溺れてはならないという事実――それがその穴であった。一方、キリスト教という機械のほうには、固い釘のような突起がついていた。キリスト教の神は人格神であり、神自身とは別個の存在として世界を創造したというドグマ――これはその突起であった。このドグマの釘は、世界の穴にぴったりはまった。ぴったりはまるように作ってあることは明らかだった。ところが、そこで不思議なことが起こり始めたのである。二つの機械のこの二つの部分が組み合わさると、一つ、また一つ、全部の部分がみな組み合わさり、ぴったりはまっていったのである。あんまりもののみごとに合っていくので、私は思わずゾッとしたほどだ。機械のあらゆる部分のボルトがことごとく、ぴたりぴたりと噛み合って、カチリカチリと音を立てるのが一つ一つ耳に聞こえたのである。何とも言えぬ安堵をもたらす音だった。一つの部分が噛み合うと、ほかのすべての部分がその同じ正確さを繰り返して噛み合っていくありさまは、無数の時計が一つ一つ、みな次々に十二時を打っていくのを聞いているようだった。私が本能的に感じ取っていたことが、一つ一つ、キリスト教の教義によって次々と答えられていくのである。あるいは、比喩を変えて言うならば、私はまるで、敵国に深く侵入して、大きな砦を取った人のようでもあった。その砦が一つ落ちると、その国中がみな降伏し、みな私の無二の味方に変じたようだった。今まで暗かった土地全体に今あかあかと灯りがともって、はるか子供のころの野原まで見透せるようになったとでも言うべきだろうか。子供のころに、意味もわからずにただ空想していたことがみな――つまり第四章で説明したあの空想、暗がりの中でつきとめようとして果たさなかったあの空想がことごとく、突然透明になり、整然と意味を成してきたのである。バラが赤いという事実の背後には、何かしら誰かの意志が存在すると私はいつも感じてきた。その私の感じが正しかったことが今や明らかになったのである。それは神の意志だったのだ。私はまた、草は必然によって今の色に定められているというより、むしろ今の草の色はまちがっていると考えるほうがましだと感じてもいた。私は正しかったのだ。草の色は、事実、ほかのどんな色であることもできたのだ。私はまた漠然と感じていた。幸福というものが、実に危うい条件の糸にかかっていることには、やはり何としても何らかの意味があるのにちがいない、と。やっぱり私は正しかったのである。今にして思えば、その意味は人間の堕落、原罪の教義の意味であったのだ。そればかりではない。私が抱いていた漠然として形をなさぬ奇怪な妄想も、かつては自分でもその何物であるのかさえ定かではなく、ましてや弁護することなど思いもよらなかったのに、今や静々とそのあるべき場所に歩み入ったのだ。それはまるで、古代の神殿を飾るさまざまな彫像が、それぞれの役割に従って整然とあるべき所に配置されるのにも似てみごとであった。今や所を与えられたこれらの想念は、新しい信仰の建築を構成する柱となり、梁となって、その本来の役割を果たすことになったのである。たとえば、宇宙は巨大でも広漠としていてもいず、むしろ小さく小じんまりとして心地よいものだという想念にしても、今ようやくその本来の意味を全うすることができたのだ。というのも、どんな芸術作品であろうとも、芸術作品であるかぎり、作者の目には小さく見えるからである。つまり、神様の目には、星もまた、ダイヤモンドと同じように、小さくかわいらしいものに見えるだろうということだ。それからまた、私の心にいつも付きまとって離れなかったある本能的な感情にしても同じことである。善は単に利用すべき道具というだけではなく、ロビンソン・クルーソーが船から引き上げた品物と同じように、大事に守って行かねばならぬ遺品なのだ――そう感じていた本能的な信念さえ、実は、知恵の源から発する不思議なささやきであったのである。というのも、キリスト教によれば、われわれは事実難破を生きのびた者にほかならないからだ。われわれはみな、世界の始まる前に沈んだ黄金の船の乗組員にほかならないからだ」