Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

渡辺『カルヴァンの教会論』pp.200-201

渡辺 信夫『カルヴァンの教会論』東京: 改革社, 1976年, pp.200-201

「教会がそこにあることを見わける目じるし(nota)の一つとして、訓練ないし規律、戒規を数えるべきかどうか。一般に改革派においては、ルター派よりもずっと訓練を重んじる。その典型として知られているのは、『スコットランド信仰告白』第一八章であろう。『それゆえ、神の真の教会の目じるしは、まず第一に神の言葉の真実なる説教である、とわれわれは信じ、告白し、誓言する。……中略……。第二はイエス・キリストサクラメントゥムの正しい執行である。……中略……。最後に神の言葉の規定するところに従って正しく行われる教会訓練、すなわち、それによって悪徳が抑制され、徳が養われるところのものである。以上の目じるしが見られ、いつも保持されているところならば(その人数がいかほど少なくても、たとい二-三人であっても)、疑いなくキリストの真の教会が存する。彼はその約束の通りに、彼らの中にいましたもうのである』。ノックスがこのように訓練、規律を第三の目じるしにまで高めたのに対し、カルヴァンは教会たるの目じるしをはじめの二つにとどめている(四・一・九)。ただし、彼は規律をやはり不可欠のものと見ている。規律は、まずその基礎において相互訓練でなければならないが、兄弟としての勧告が無視された場合の次の段階では『治めるつとめ』の担い手によって執行される。『治めるつとめ』は『教えるつとめ』と同じく、神の制定であり、神の召しによってはじまる(四・三・一〇)。にもかかわらず、訓練は教会たるの『目じるし』の一つとは看做されない。なぜか。思うに、カルヴァンは教会の実質としてキリストとの交わりを考えていたからである。この交わりはキリスト伝達によって起こる。しかるに、訓練、戒規は、キリスト伝達にはならない。これが説教およびサクラメントゥムとの違いである。キリストとの交わりが『外的な支え』(subsidium externum)を必要とするのは確かであるが、カルヴァンは内から考えて行こうとしたのである」