Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

赤木『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか』p.97

赤木 善光『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか――神の恵みの手段としての洗礼と聖餐』東京: 教文館, 2008年, p.97

〈構成〉
I 現代におけるサクラメントの問題
 序
 第一章 教会史的考察
 第二章 現代におけるサクラメントの問題
II なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか
 第一章 未受洗者の陪餐を許すべきだという主張
 第二章 未受洗者の陪餐を許すべきだという主張に対する批判
 第三章 赤岩栄が残した課題――上原教会が辿った歴史
 参考資料 陶山義雄「想起すべき聖餐・愛餐――赤岩栄が残した課題」

〈引用〉
 言うまでもなく、聖餐の目的は救済である。しかし聖餐にはそれだけでなく、審判の面もある。「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」(二九節)のである。私たちは現在、聖餐の持つ、このような審判的な面をも真剣に考えるべきではないだろうか。また聖書学者たちが指摘しているように、もしIコリント一六・二二「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」(口語訳では「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ」)が初代教会の聖餐式において告知された言葉であるとすれば、聖餐には、すでにパウロの頃から、裁きや呪いの面があることとされていたと言うことができる。