Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

森本『反知性主義』p.100

森本 あんり『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』新潮選書, 東京: 新潮社, 2015年, p.100

〈引用〉
「神は人間を平等に創造した」というのは、実はキリスト教史においてもかなり新奇な教えである。キリスト教徒は、ごく最近まで、神が人間を不平等に創造した、と信じていた。いや、もちろん聖書には、「神の前で万人は平等だ」と書かれている。使徒パウロは、「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」(「ガラテヤ人への手紙」三章二八節)と言う。だが、その同じパウロは、教会の中で女性が指導者になることを許さず、妻は夫に従えと諭し、奴隷制をあるがままに容認していたのである。この矛盾はいったい何なのだろうか。
 それを解く鍵は、「キリスト・イエスにあって」や「神の前に」などという言葉遣いにある。つまり、キリスト教は長い間、人間はみな宗教的には平等でも、社会的な現実においては不平等でよい、と考えてきたのである。人間社会には、上下の秩序がある。神が創られたこの世界には、支配する者とされる者、身分の高い者と低い者、豊かな者と貧しい者がある。だからこそ、その中でお互いに助け合い、上には上なりの品徳と権威が、下には下なりの献身と服従が求められるのである。