Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

森本『反知性主義』pp.100-101

森本 あんり『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』新潮選書, 東京: 新潮社, 2015年, pp.100-101

〈引用〉
 この不平等容認論は、プロテスタントが登場しても変わらない前提だった。宗教改革は、たしかに自由で平等な市民という近代社会の出発点を提供したかもしれない。しかし、前述の「万人祭司制」が示しているのは、あくまでも神の前での万人の平等である。ルターが論じた「キリスト者の自由」は、宗教的な領域における自由であって、その自由が一直線に市民的自由へと発展を遂げたわけでない。彼の思想に共感した農民たちが領主への反乱を起こすと、ルターは容赦なく「盗み殺す農民暴徒ども」を打ち殺すよう勧めた。ここはしばしばルターの暗黒面として、研究者の間でも解釈がわかれるところである。
 そして、そういう彼の判断にも、聖書的な根拠がある。ルターがそこで依拠したのは、新約聖書「ローマ人への手紙」一三章に書かれたパウロの次のような理解である。「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。権威に逆らう者は、神の定めにそむく者であるから、そういう者に対しては剣をもって罰するのが官憲に与えられた役割である。」
 以上を要するに、「神の前での平等は、この世の社会における平等を導かない」というのが近代までのごく一般的な共通理解だった。独立後の一八三五年になっても、マサチューセッツではこんな言葉が記されている。「宗教は、人びとの間で富が不平等に分配されていることを是認する。それが社会の常態であることを受け入れるべきである。」

宗教的反逆と政治的反逆

 ピューリタンも、この点では宗教改革者と同じ考え方で出発している。本書の冒頭に引用したウィンスロップの説教を思い起こしていただきたい。「キリスト教的な愛の模範」を語ったあの説教は、上下関係の明確な身分制社会の中で、その秩序に見合って各人が「身の程をわきまえた」応分の振る舞いをするべきことを語っている。それを前提とした上で、お互いに聖書が示しているような愛をもって新しい社会を建設しましょう、という趣旨である。