Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

中野「『聖餐』の歴史的三つのルーツを探る」『まことの聖餐を求めて』pp.62-63

中野 実「『聖餐』の歴史的三つのルーツを探る――個性的であるがゆえに魅力的な共同体形成を目指しつつ」芳賀 力編『まことの聖餐を求めて』東京: 教文館, 2008年, pp.62-63

〈引用〉
 また教会は神の国ではない、という点にも注意を向けなければならないでしょう。確かに教会は神の国の先取りという側面を持っています。教会において、神の国の果実を私たちはすでに味わうことが許されています。しかし、ヨハネ黙示録からのイメージを用いれば、来るべき神の国においては、もはや「教会」も「聖餐」も存在しないのです(黙示録二一・二二参照)。神との、主イエスとの直接の交わりに入れられるからです。そのような終末論的展望を持ちつつ(マラナ・タと祈りつつ)、神の国のヴィジョンをこの世界において実現する不可欠な器として、限定された信仰共同体が用いられている。そのような使命を果たしていく原動力として、教会は「主の晩餐」を大切に守ってきました。一回限り(イエスの名による、三位一体の神の名による)洗礼によってキリストのものとされた存在が、繰り返しキリストと結びつけられ、また信仰者同士が互いに結びつけられて、一つの信仰共同体を形成する。そのような現実が目に見えて明らかになるために不可欠な祭儀(祝祭、典礼)として、教会は「主の晩餐」を必要としているのです。