Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Klooster, Calvin’s Doctrine of Predestination (金田訳『カルヴァンの予定論』pp.59-60)

Fred H. Klooster, Calvin’s Doctrine of Predestination, Grand Rapids, Michigan: Baker Book House, 1977, 2nd ed.
(金田 幸男訳『カルヴァンの予定論』竹原: 聖恵授産所出版部, 1984年, pp.59-60)

〈引用〉
 キリストをわれわれが選ばれていることの鏡とみることは、現在の確信を与えてくれる。しかし、未来についてはどうだろうか。ある人々は、今、まことの信仰をもち、キリストに結びつけられているように思われるが、のちには、堕落してしまう。カルヴァンもこの問題に直面した。未来のためにも、キリストは、選びの鏡であり、われわれの保護(堅忍)の確かさである。「キリストは、この心配をもなくして下さる。なぜなら、約束は、たしかに、未来にも適用されるからである。『父が、私に与えられたものは皆、私に来る。私にくる者は、決して捨て去るようなことをしない。』(ヨハネ六・三七) カルヴァンは、別の言葉を述べて結論を出す。「われわれは、一度限り、キリストのものとされたのであるから、将来も安全であるということを信じる他キリストは、このところから、何を学ばせるというのであろうか。」キリストは、御父の永遠の知恵、不変の真理、確固とした計画であるから、われわれが求める御父の御旨より、ほんのわずか、ちがった風に語られる御言を恐れるべきではない。むしろ、御言は、真実に、はじめから、いつまでもつづくものとして、神の御心を啓示しているのである。」キリストは、御言により理解されなければならない。約束は確かであるから、信者は「主よ、もし、選ばれているのでしたら、私の祈りに耳を傾けて下さい。」と祈ることは許されない。そのような祈りの型は、神の約束を疑うことをあらわしている。聖書は、キリストに属しているとみえる者も、後に堕落してしまうことはありうると述べる。カルヴァンは、「そういう人々が、心からの信頼をもって、われわれのために立てられたキリストにより頼んでいないというのは明らかである」と説明する。更につづけて「そこで、このようなのちに堕落してしまう人の例をもって、主の約束に全面的に寄り頼むことを断念してしまうことのないようにしよう。約束の中で、主は、まことの信仰によって受け入れられる者が、御父により与えられたのだと宣言される。誰も、主が、保護者、羊飼であるから、滅びることはない。(ヨハネ三・一六、六・三九)」