Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

Klooster, Calvin’s Doctrine of Predestination (金田訳『カルヴァンの予定論』pp.41-42)

Fred H. Klooster, Calvin’s Doctrine of Predestination, Grand Rapids, Michigan: Baker Book House, 1977, 2nd ed.
(金田 幸男訳『カルヴァンの予定論』竹原: 聖恵授産所出版部, 1984年, pp.41-42)

〈引用〉
 以上から、カルヴァンが、神の永遠の聖定としての予定を定義するさい、何をいわんとしているか明らかになったはずである。「予定によって、神は、全ての人間に、なそうとされたことを、決定されたのである。」選びの聖定は、本来無に等しい個々の人間を区別する。ヤコブエサウには、全てのものは等しかった。しかし、二人に対する神のさばきは異なった。なぜなら、神は一方を受け入れ、他方を拒まれたからである。……神は、イシマエルをご自身のものと認めず、イサクを御心に留められた(創世記二一・一二)。マナセをさしおいて、エフライムに誉れを与えられた(創世記四八・二〇)。しかし、神が啓示しようとして選ばれた例外的な場合を除いて、人間は、聖定を知ることができない。ヤコブエサウの類のない例がそれで、両親は、二人の誕生前に、双生児についての永遠の聖定が告げられていた。つまり、リベカは、その子ヤコブの選びを神から知らされていたのである。しかし、この類のない例でも、神の啓示が、両親の異なる行動の根拠にはならなかった。恵みの手段は、エサウから取り去られなかったし、選ばれたヤコブにだけ与えられなかった。しかし、イエス・キリストを通して、救いの賜物を受けるようにする主権的個人の選びは、神がある者から取り去るものを別の人に与える時に――そして、受ける者に価値がないのに、惜しまず与える時に――神の自由な恵みを強調するものである。