Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書講話 ローマの信徒への手紙8章22~28節

聖書講話 ローマの信徒への手紙8章22~28節(新共同訳 新約pp.284-285)
「世の悲しみを意識しつつ祈る」

 ヨハネによる福音書15章7~8節におけるイエス・キリストの言葉について、キャンベル・モルガンというイギリスの伝道者が著書『祈りの実行』の中で「神との真実な関係を保つ生活は、求めるものが神の御心と合致し、神の創造的力による祈りの答えを要求する様な生活である」と語っている。
 御父はご自身が遣わされた御子イエス・キリストを通して人間に直々にお語りになる。イエス・キリストは御父の御心にどこまでも従われた。それ故、私達はイエス・キリストの言葉を厳粛に受け止めなければならない。また、罪人である私達は本来御父の御前に出ることが出来ない。イエス・キリストが私達の救い主としておいで下さり、仲介者として私達の罪を背負って十字架にかかって下さったことによって、私達に新しい祈りの生活が開けてきた。
 そして、イエス・キリストが昇天された後、聖霊が降り、今も働いておられる。26節にあるように、聖霊は「弱いわたしたちを助けて」(26節)下さる。聖霊の働きによって私達は奮い起こされ、「神の御心に従って」(27節)祈ることへと導かれる。
 三位一体の神、即ち父なる神、子なるキリスト、聖霊のいずれもが私達の祈りに関わっている。そのことが祈りの土台となる。誰に対して(御父)、誰を通して(御子)、誰によって(聖霊)祈るかを理解する時、私達は正しく祈ることが出来る。
 また、私達が信じる告白している真理と一致した生活・生き方をするならば、祈りたくなるだけでなく、祈り続けることが出来る。私達はイエス・キリストによって神の子とされた。それなのに、私達の心の中に憎しみや敵意があるならば、祈り続けることは出来ない。確かに、私達の人生の中には辛いこと、悲しいことが沢山ある。それでも、私達が痛みや不満に囚われることは聖霊を悲しませる。憎しみや敵意は、愛という三位一体の神のご性質とは相容れないからである。自分の顔を神の光に向け、主の御心に熱心に従おう。神の愛が私達の生活全体を支配して初めて、勝ち抜く祈りが出来る。
 更に、私達は、世の悲しみに触れ、その痛みを自分のものとするような、キリスト者としての新しい感覚を持つべきである。パウロは「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(22節)と述べている。聖霊は私達にこの世の悲しみや苦しみの意味を解き明かして下さる。それを感じるようになる時、イエス・キリストがこの世の悲しみや苦しみと向き合い、人々に仕えられたように、私達の内に神の国の到来を祈り求め、自己を犠牲にして奉仕しようとする欲求が生まれる。私達は「ああして下さい。こうして下さい」と自分の願いだけを求める祈りに留まっていてはいけない。
 最後に、パウロは「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(25節)と述べている。私達は、祈らないならば失望するが、祈るならば失望することはない。私達の生活のパターンは一人一人違うので、自分に合った祈りの場所、時間、方法を自分で見つけ出して欲しい。そして、祈りの習慣を是非養って欲しい。