Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書講話 ルカによる福音書9章18~27節

聖書講話 ルカによる福音書9章18~27節(新共同訳 新約p.122)
「十字架を背負って従え」

 雨宮慧というローマ・カトリックの聖書学者が今日の聖書箇所を「この人は一体何者だろう」というテーマで説明している。雨宮によれば、これは、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストに既成の預言者像を超える姿を見た者が発する問いである。実際、イエス・キリストが罪深い女に罪の赦しを宣言した時、その場にいた人々がこの問いを発している(7章49節)。弟子達も、イエス・キリストが突風を静めるのを見て、この問いを発した(8章25節)。
 今日の箇所で、ペトロが弟子達を代表して、「神からのメシアです」(20節)と答えている。ところが、21節を見ると、イエス・キリストが「弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じ」たとある。弟子達はこのような告白へと到ったが、世の人々はそのようには思っていない。だから、イエス・キリストはこのことを軽々しく人に話さないように命じた。
 そして、イエス・キリストは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22節)と言われた。ここで重要なのは、「必ず苦しみを受け」という部分である。「復活することになっている」と訳されている箇所も、原文を見ると、出来事の必然性を表すギリシア語が使われている。だから、「復活することは必然である」と訳すことが出来る。つまり、受難も復活も、主なる神のご意志によるものであり、「神からのメシア」であるイエス・キリストにとって不可避の道である。
 それからイエス・キリストは弟子達に「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)と言われた。イエス・キリストは私達を救うために苦しみを受け、十字架につけられた。では、私達一人一人にとってイエス・キリストが言われる「自分の十字架」とは何だろうか。自分がどのような十字架を背負っているかを考えて欲しい。